自意識
- 作者: 大江健三郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1968/04/29
- メディア: 文庫
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部屋の本棚に上記の本を何故か見つけて、
実家住まいなので、「親の昔の本かな」と思って読んでいたら、
五割読んだところで、「俺の本だ*1。前に読んだわ・・・」と思い出しました。
でも、途中までは凄く新鮮な気持ちで読めたから、
本は読む人のレベル合わせて違う顔を見せるんだな
つまり、前読んだときよりはレベルが上がっているな
と思い込もうとしましたが、失敗。
どう考えても前に読んだとき頭に入ってないか、
忘れちゃってるかの二択ですね。
さて、解説を読むとサルトルの実存主義が云々とあるけれど、
自分にとって衝撃的だったのは、上記短編集に含まれている
「セブンティーン」という短編。
自意識過剰な少年が、
右翼団体に入るのを機に自己を放棄するまでを描いたものだけれども、
その17歳の少年の自意識過剰っぷりが見事。
凄くリアルで「あぁ、自分も17歳くらいのときはこうだった」と凄く感じました。
■[others]全くドキドキしないクリスマス
http://d.hatena.ne.jp/upton/20061225/1167161410
そして、高校生のときに感じた彼女が出来ないことに関する劣等感も、
そういう思春期にありがちな自意識が生んだものだったのかとはたと気がつきました。
その自意識はナニから来ているか、
綺麗な話に持っていこうとするとそれは可能性から来ていたのではないかと思うのです。
生徒というのは、努力さえすればそれなりに成績も収められるという対等さがあって、
大抵のことは、そのトシで成し遂げれば最年少、と言われるくらいの若さもある。
その中で自意識は自分の可能性を見積もる作業をしていたのでは、
更に私はその可能性を出来る限り大きく見積もろうと必死だったのでは。
だからちょっとした挫折や失敗が、将来の自分のイメージを下げしめるような
下向きのベクトルに見えて、異常にそれを恐れたのでは。
それに対して、
今まったりしている自分というのは、
ある程度自分の可能性というのを分かってしまって(分かった気になって)、
将来の自分のイメージも現在の自分にある程度沿った形で、
自分の気分もそれで妥協できるようにしてしまっているのでは。
・・・と思うのです。
どちらが真剣に生きているか、というのは一概には言えないと思います。
ただ、現状に適応しようとする面も社会人として必要ですが、
必死に背伸びしている面も、これからはたまには出していこうかなと思います。
*1:更に言うと俺の本ではなくて借りパク状態になってる先輩の本だった!返さなきゃ